二百数十年の歴史を誇る江戸火消しの伝統と文化を保存すべく、昭和14年に任意団体として江戸消防記念会を発足させ、伝統行事の開催、各種公式行事の参加など活動は活発でした。

昭和16年太平洋戦争に突入後、戦局の悪化、東京の空襲、爆撃で会を構成する地域の殆どが焦土化し、江戸消防の象徴である各組の纏や会員の正装でもある伴纏、腰掛け等も殆どが消失してしまいました。

その後終戦を迎え、有名無実の会の存続が危ぶまれるなか、幹部は戦火を逃れた地域から伴纏、腰掛けなどを融通してもらい、昭和21年に「殉職者慰霊祭」を行い、また、消失した纏の復活を目指し、東京都議会関係者らを通じ、GHQ(連合軍総司令部)から「理解ある内意」を得た後、半年がかりで纏を新調、伴纏、腰掛けの生地も取り揃え、昭和22年2月纏授与式が行われ、会は新しい歴史の一歩を踏み出しました。

昭和29年10月に東京都教育委員会の承認を得て、「社団法人江戸消防記念会」が誕生し、昭和31年に「江戸鳶木遣」が、都技芸として無形文化財に指定されました。


 第七区の頭の皆様


写真左から衆議院議員 松原 仁氏、石原ひろたか氏中西一善氏 宇佐美 登氏、


「社団法人江戸消防記念会」が誕生した昭和29年に、旧消防組から品川、大田地区からの七組が第七区として独立加盟し、翌年昭和28年に「第七区纏保存会」を結成しました。昭和30年代当時の名簿では、333名の会員を擁しており、それぞれの受持区域は一番組から順に、荏原・大崎・大井・蒲田・羽田・矢口・六郷となっていました。
昭和33年に組内の事情で、四番組・五番組・七番組が脱会しましたが、昭和42年頃に五番組が復帰し現在に至っています。

年間の恒例行事を行うとともに、梯子乗り、纏振り、木遣りの稽古を先輩の指導で定期的に行い、江戸火消しの伝統と文化を維持、継承しています。

また、七区の特徴でもある「横のつながりを持ち、くつろいだ隔たりのない付き合い」は、七区の結束発展、相互親睦を深めるとともに、若い世代の育成にも努めています。
 
第七区は「大森ペット霊堂」の創設者、齋藤博が
六代目会長を受け継いでおります。


総代 酒井文吉のもとに新年の挨拶


纏は町火消しのそれぞれの組の標識であり、消防のシンボル(象徴)です。火消したちは纏の下に総力を結集して消火活動に当たります。

纏持ちは大体が世襲制度で、火消しの中で最も名誉ある仕事とされており、燃えさかる建物の最も近い屋根に纏を立て、「ここで火事を食い止める」という意思を示しました。各組の纏持ちは先陣を争い、「自分の組の纏を燃やすな」を合言葉に、義理と人情と痩せ我慢で纏持ちの心意気を現しました。


第七区 纏(まとい)


纏はその昔、軍隊の将師が所在の標を、馬側に立てたことに始まり、これが「的率(まとい)」と呼ばれ、武田家が「纏」と唱え出したと言われています。

火消したちによって火事場で纏が使われ始めたのは、江戸時代の太平の世になってからで、今日のような纏の形に成ったのは、今から270年ほど前の享保15年(1730年)でした。


纏の最上部で標識部分は「陀志(だし)」と呼ばれ、どの角度から見ても立体的に見えるように、ほとんどが三面で、軽くて丈夫で燃えにくい銅材を使用しています。

「陀志」の下に付いている、48本の帯状の紐は「馬簾」と呼ばれ、幅八分五厘(2.4cm)、長さ二尺九寸(約90cm)で、木綿の布を二重にして和紙を貼り付け、胡粉を塗り付けています。

柄の部分は樫の木を用い、長さは五尺八寸(約1.7M)で、最下位部にはちょうど蛙が両足を踏ん張ったようなY字型の「蛙又」と呼ばれる金具が付いており、纏全体の重さは6貫(約22Kg)あったと言われています。


梯子乗りの始まりは、佐山秀雄著『階子乗技づくし』(江戸消防記念会)の中で、「その起源は古く享保3年(1719年)3月、ご存知の町火消しの誕生により、相次ぐ火災の方向を見定めるのに、長刺扠を軒場などに立てかけ、身軽な若者がそれに登って火災を見たのが、階子乗りの始めと言う」とあります。

また、これとは別に梯子乗りは、江戸時代、火災現場で重宝であった梯子を用いて、火の用心の重要性を訴える、消防デモンストレーションのひとつとして行われてもいました。また、一説には満足な火消し道具が無かった江戸時代、破壊消防のために屋根や梁など高いところに登ることが多く、素早い身のこなしを必要としたことから、訓練のために始められたとも言われています。

あまり知られていませんが、火災現場の人命救助にも梯子は用いられました。梯子乗りの「谷覗き」というは技はそのひとつです。





梯子乗りの様子


今日、消防出初式会場などにおいて披露されている、梯子乗りの形には、遠見、八艘、邯鄲、鯱、唐傘、背亀、腹亀、肝潰し、藤下り、大返り、膝掛、谷覗き、腕溜め、横大の字、爪掛け、駒落し、子亀つるしなどがあります。


梯子は真新しい青竹で作り、昔は高さは四間半(約8.5M)であったが、昭和20年の後半から高さは三間半(約6.5M)となり、17個の甲(檜製)が取り付けられ、梯子の外側を薄い銅板で巻いてある。梯子乗りを行うときは、八尺(約2.5M)の鳶口4本と、六尺(約1.8M)の鳶口8本で梯子を支えています。


「木遣り」の発祥は、労働歌として生まれたものでしたが、今日ではお目出度い席で席で歌われることが多くなっています。
 
「広辞苑」には「重い木材などを音頭をとりながら、掛け声を掛けて送り運ぶこと。木遣り歌の略」と述べており、また「木遣りの時に歌う一種の俗謡。地突きまたは祭礼の山車を引く時に歌う。木遣節。木遣口説」と記されています。


木遣りは労働歌として、働く者の気を力を一つに合わせ、一同の力を一遍に出させるために歌われ、目的に応じそれぞれの風土と混じり合い、変化しながら、全国各地に広がりその土地に定着していきました。


「江戸鳶木遣」は、江戸の庶民が残した貴重な文化財として、昭和31年に東京都無形文化財に指定されました。
 
江戸木遣は鳶職人たちが伝承の中心となり、労働歌から次第に鳶の歌として定着し、歌の内容も多岐にわたり、江戸の庶民の文化を反映するように成りました。建前、祭礼、婚礼、出初式などの儀式の歌として「力の木遣り」から「聞かせるための木遣り」として歌われるように成りました。
 
江戸木遣は、江戸消防記念会が、纏や梯子乗りとともに今日も毎年1月6日に行われる消防出初式を始め、神田明神や日枝神社の祭礼など、各地の建前、地鎮際、劇場のこけら落としなど、お目出度い行事の席上で、祝儀の歌として歌われその行事に花を添えています。
 
また、江戸文化を外国に紹介する催事に関しても、纏振りや梯子乗りと共に木遣り歌を披露して国際親善に貢献しています。

参考文献「江戸消防 創立50周年記念」 社団法人 江戸消防記念会 監修 東京消防庁


 
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